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2013/04/14 (Sun)

加藤一二三『羽生善治論 ――「天才」とは何か』(角川oneテーマ21) 加藤一二三『羽生善治論 ――「天才」とは何か』(角川oneテーマ21) - shanghai将棋日記(仮) を含むブックマーク はてなブックマーク - 加藤一二三『羽生善治論 ――「天才」とは何か』(角川oneテーマ21) - shanghai将棋日記(仮)

書名の通り徹頭徹尾、羽生善治を通じて「天才とは何か」を論じる内容で、これまでの加藤九段の著書とは趣が異なる。

誰もが認める天才が、「自分は天才である」という事実を前提として書いた天才論、という点では一種の奇書とも言えよう。

主に羽生善治と加藤一二三本人を引き比べて論じる形で進行するが、まず加藤自身について、自分が天才と公言したことはないとしながらも、

 ただ、正直に言えば、思ったことはある。

「もしかしたら、自分は天才じゃないか……?」

 タイトル戦、しかも名局で勝ったとき、具体的にいえば、難しい局面で好手、妙手を発見して勝ったときなどに、そう思ったことがあるのは事実だ。

 別に驕ったわけではない。掛け値なしに、虚心坦懐に、謙虚に自分の将棋をみつめた結果、「『天才』と呼んでもいいんじゃないか」

 そう思ったのである。

極めて率直で、同じ天才の中にもなかなかこう書ける人はいまい。そして非常に素朴である。我々ファンがプロの名局を観て「天才だ!」というのと同じような感覚基準で(むろん将棋そのものに対する理解の度合いは全く異なるが)「天才じゃないか」という判断をしている。

一方で、大山康晴名人が名局集に「加藤一二三は大天才である」と書いた事実を引いて、

しかし、大名人であり、大巨匠である大山さんが「加藤は大天才である」といってくれていたのだから、ほんとうにそうであるかはひとまず措くとして、「加藤一二三は大天才である」という前提のもとに、以下、論を進めていくことにする。

加藤=天才の根拠として、大山名人によるお墨付きを挙げているのも興味深い。

上述の通り本書は羽生の特徴について述べた上で加藤が「少なくとも私の場合は~」と自身と比較してみせるという形式が基本になっている。が、むろん他にも将棋界に何人もいる紛れもない天才のエピソードを適宜引く中で、羽生、加藤に加えた第三項に近い扱いになっているのは大山康晴である。これは少し意外だった。

加藤一二三は大山康晴を、将棋の上でも人間的にも苦手としていた、という見方が一般的だと思う。むしろ大山の最大のライバルで対抗派閥(?)の領袖でもあった升田幸三に可愛がられていたのが加藤だったはず。むろん客観的に大山が将棋史上最大の巨人ともいえる存在であることは事実で、加藤が天才説の論拠として自分より上位の権威である大山を引用したのはわかるが、それ以上に明らかに個人的にも加藤の中で大山の存在は大きく、また決してネガティブでない評価をしているんだなということが本書全体から読み取れるのでそこは新鮮だった。

大山以外ではやはり自身と同世代に近いライバルである米長、中原への言及が多く、次いで谷川だろうか。意外にも升田幸三はあまり登場しないという印象。

天才論としては、やはり第一章「羽生は天才か」で、「天才の条件」を真正面から論じているのが白眉。中でも「早指し」に関する考えはいかにも加藤らしく極端である。

 勉強をしている、していないにかかわらず、早く指すことができて、しかも着手が正確で、なおかつ勝つこと――これは、間違いなく天才の共通点である。絶対だ。天才は、盤を見た瞬間に、パッとひらめくのである。もっとも強力な一手、最強の一手が、局面を見た瞬間に浮かんでくるものなのだ。こうした能力は努力したからといって身につくものではない。もって生まれた、並外れた素質としかいいようがない。

 若くして長考型に天才はいない。断言してもいい。子どものころから、一手、一手、考え込んでいたような棋士はかなり将来が危うい。はっきりいって、早いうちに棋士をやめたほうがいいとさえ思う。

確かに「一目で最善手が見える能力」に関してはまさに加藤一二三の才能の最たるもので、河口俊彦老師も秒読みに追われた時の強さについて「加藤一二三こそ天才のなかの天才」と書いている。その加藤がいう言葉は余人には否定しがたい強さがあるが、あえていえば「努力したからといって身につくものではない」「もって生まれた素質」と断言するのは早計だろう。羽生流にいえば「検討を省略して考えなくてもいい手を除いた有力な候補手が直観で浮かぶ」のは経験の蓄積によるものだし、努力で身につくものではない、というのは正確にはどのような訓練でその能力を伸ばせるのかまだわかっていない、ということだと思う。ただ付け加えると、「あまり考えずにどんどん指す子供のほうが伸びる」とは将棋指導の一般論としても言われていることではある。理由はいろいろな説が考えられているようだが。

羽生は「若い頃は才能とは一瞬のひらめきだと思っていたが、努力を継続できることが才能だと思うようになった」という意味のことも言っている。加藤の考える才能は今も前者に近いものだということだろう。

羽生の言葉は、単に才能と実績がある人の体験談であるというだけでなく、彼が自分自身についてもよく思索して考え抜いた上での結論を語っているところにより一層の価値がある。それに比べると、同じ天才でも加藤は天然タイプというか、一般的にイメージされる(?)天才ならではの言葉だと思う。逆にいうと「天才」と「自分の天才を分析する研究者」が同居している羽生はやはり例外中の例外なのだろう。加藤流の「生まれ持っての素質」、羽生自身が考える「努力を継続できる才能」、そして「自分を客観的に分析できる視点」、この三つを兼ね備えているのは羽生だけ、というのが、羽生が突出した存在である理由の現時点での個人的な結論。

では渡辺明とは何者なのか? というのが次の問題なのだが、これはまだ誰も仮説すらほとんど立てられていない段階ではないかと思う。

ゲスト



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